こまちさんの内部事情

不眠症に悩まされるこまちさんの内部事情

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- --:-- | スポンサー広告 | トラックバック(-) | コメント(-) |
私の両親は、見事なまでに性格が違う。
父は無口で無趣味、仕事一筋で、家事はほとんどできない。私には結構甘いけど、重要な場面で雷を落とす係。
母は明るくて、負けず嫌い。フルタイムで働いているときも、家事全般をこなしていた。私には温かくも厳しく接して、小言を言う係。

今年の秋が終わる頃、我が家は重大な局面を迎えた。
まず、年末には実家に引っ越す予定だった私が、うつ病を再発。休職して寝たきりの生活になった。
同じ頃、母が原因不明のめまいに悩まされるようになった。何軒もの病院にかかった結果、メニエール病及び自律神経失調症と診断され、仕事以外のことをすることが困難になり、寝込む日々が始まった。
母に病名が付いた頃、父は定年退職を間近に控え、有休消化の日々に突入した。
家事が覚束ないのんびり屋の父と、身体が思うように動かないせいもあり、手際の悪い父に向かって声を荒げてしまう母。ある日その現場に巻き込まれた私は、弱った母に怒鳴られる父を見ていたたまれなくなり、帰宅後、頓服薬を飲んで寝込む羽目になった。

母も私も、シャキシャキ動くタイプ。マイペースな父に対してイラついてしまう母の気持ちはよくわかる。しかし私の尊敬する父がダメ出しをされている現場は、うつ病真っ只中の私には見るのが辛い光景だった。

悩みに悩んで、親戚の中でいちばん仲良くしていただいている、母方の叔母に話を聞いてもらった。母と叔母は、よく連絡を取り合い、年に一度、二人で旅行に行くほど仲がいい。

叔母は言った。
「お母さんね、お父さんに甘えてるのよ」
ハッとした。そんなこと、考えてもみなかった。私が見る両親の姿といえば、小言を言う母と、生返事で聞き流す父。けれど、夫婦喧嘩をしているところは、一度も見たことがない(私に見せないようにしていたのかもしれないけれど)。そして母はいろいろ言っても、それを引きずることはしなかったし、父もそれをわかっているからこそ、生返事で聞き流していたのではないか。つまり私が見慣れた光景は、何十年も夫婦をやっている二人の、ある意味様式美。

両親はお見合い結婚。燃え上がるような気持ちはなかったかもしれないけれど、その分、強い信頼関係を築き上げていたのだ。私にはわかりにくい形で。

今日、二週間ぶりに実家へ行った。眠っている母の代わりに、父がキッチンの大掃除をしていた。細かいところまで完璧に。夕食の仕度のために起きてきた母は、ピカピカになったキッチンを見て喜び、感嘆の声をあげていた。母は何度も、父に感謝の言葉を伝えていた。

私の両親は、両親なりに良い夫婦関係を築いてきたようだ。
しかし人生経験の浅い娘には大変わかりづらいので、できればもう少しわかりやすい形で見せていただきたい。怖いから。
スポンサーサイト
日ごろネタにしやすいのは母なのですが、今日は父の日とのことで、真面目に父のことなど。

他人から見た父は恐らく「寡黙で真面目」。我が家での評価は「頑固で、良くも悪くも意志が強い」。

父方の祖父という人は、お酒が大好きで、それが災いして仕事を転々とするような人だったので、父の一家は裕福とは言い難い生活を送っていました。そのため、父は奨学金をもらいながら、当時地元でトップレベルの高校に通っていました。しかし大学進学などできようはずもなく、父は高校卒業後就職し、早くに家を出た伯父の代わりに、一家の大黒柱の役割を果たしていました。

その後、母と見合い結婚。私が産まれ、新居を構え、せっせと働く毎日でした。一人娘である私には甘く、私は「叱り役」の母よりも、父に甘えることが多かったような記憶があります。日常の細々したことは母が叱り、ここぞというときには父の雷が落ちる、そういう家庭でした。

私が中学3年生のとき、急に「東京の高校を受けてみない?」と言われました。話は母から聞いたような気がするのですが、そこには父の意志が大きく働いていたと聞いています。その高校は父にとって思い入れの強い学校で、できることなら娘をそこで学ばせたい、そう思ったようです。幸か不幸か、私は無事合格。その後そのまま系列の大学に進学しました。

私の精神科通いが始まったのは大学時代です。高校の寮生活によるストレスが原因でした。それを機に、私は激しく両親を責めました。なぜあんな学校に行かせたのか、なぜ他大学を受けさせてくれなかったのか。
私は高校に入って程なく、地元に戻りたい、ランクを下げてもいいから地元の公立高校に通いたいと訴え始めました。しかし両親にとっては、やっとの思いで入学させた学校です。「なぜこの子は集団生活ができないのか」そのようにしか思わなかったそうです。進学先を決めるにあたって、私は両親に国立大学を希望しました。「それなら学費も生活費も全部自分で稼ぎなさい」私の進学先はその一言で決まりました。仮に奨学金をもらえたとしても、全ての費用を自分で賄いながら大学に通うというのは、当時の私にとって現実的な話ではありませんでした。系列の大学へ進学。それが答えでした。

大学卒業後、私は実家に戻りました。私の気持ちは浮き沈みが激しく、ひどいときには隣近所に響き渡るほどの声で、両親を責め続けました。謝り続ける母、隣で黙っている父。そんな日々が何年も続きました。

その後様々な経緯があり、私は両親の元を離れて暮らすことになりました。一つ屋根の下で暮らしていたら、同じことの繰り返しになってしまう、だから一人暮らしをさせてほしいと、私は頭を下げました。日ごろ口数の少ない父が「わかった」と一言。経済的に負担がかかることを承知した上での一言でした。

家族のありがたみは、離れてわかるものとはよく言ったものです。最初のうちは毎週の病院通いのついでに実家に寄り、夕ご飯を3人で食べて、洗い物を手伝って帰宅。そのうち病院に通う回数は月に1度にまで減りましたが、週に1度くらい顔を見せた方が両親も安心するだろうと思い、今でも毎週実家に通っています。食卓では主に母と私がお喋りをし、父は黙ってご飯を食べる、そんな感じです。父を蔑ろにしているわけではなく、ただ単に父は進んで話に入ってくるような性格ではないというだけのことです。

今年の3月、私はやっと「あの高校に通えて良かった」と思うことができ、両親に宛てて感謝の手紙を書きました。それを渡した翌週、父に「あの手紙は『花嫁からの手紙』ぐらいにお母さんを泣かせたと思うんだよね(笑)」と言うと「……まあね、いつか、わかってくれる日が来ると思ってたから」。ああ、父は黙って、ずっと黙って耐えていたんだなと、初めて理解しました。高校受験のとき、毎晩私に数学を教えてくれた父。高校合格の報は、どれだけ父を喜ばせたことでしょう。「学校を辞めたい」という娘の言葉に、どれだけ父は心を痛めたことでしょう。自分たちの望む学校に進学させたことは間違いだったのだろうかと、どれだけ父は悩んだことでしょう。

手紙を渡す少し前でしょうか、父はある活動を再開しました。一度決めたことは、滅多なことではやめない父です。それまでとは人が変わったかのように、いきいきとしています。
母がどれだけ「一緒にやろうよ」と誘っても即座に「やだ」と返事していたウォーキングも、最近始めました。父の日のプレゼントはウォーキングシューズが欲しいと言うので、先週一緒に買いに行きました。毎日毎日、遅く帰ってきてもそれから歩きに行っているそうです。

父は確固たる哲学を持っています。父の意志の強さや真面目さは、そこから来ているのだと思います。
還暦も過ぎ、父の後ろ姿が一回り小さく見えるようになりました。私の方がよく知っていることも増えてきました。それでも私の中では、父は何でもできて、どんな質問にもすぐにわかりやすく答えてくれる、スーパーマンです。

お父さん、長生きしてね、お母さんと一緒に。まだまだ私は親孝行できてません。
昨日は母の日でしたね。
販売系の会社にありがちな「ギフト注文・母の日バージョン」がありまして。ノルマは各店5件以上。いやそれ絶対無理ですから。前店長、そういうのほぼスルーでしたし、古いパートさんだってそんなギフトの存在を知らないと思いますよ。
でも現店長はマメかつ真面目なので、募集をしたのです。結果、応募0。店長の悲しげな呟きがデイリーシフトにひっそり書いてあったので、うっかり仏心を出して、最終日に「ギフト協力してほしいですか?」と訊いて、1つ注文。今年の母の日は何もせず、母の誕生日の9月までにピアスをプレゼントするということになっていたので、お花が届くとはかけらも思っていないだろうふふふ。

先週水曜日に実家に行ったときに「実は社販でギフトをね」と言ってしまいたい衝動に駆られましたが、そこでばらしてはサプライズにならないので、うずうずしながら我慢。
金曜日のお昼頃母からメール。おお届いたか。折り返し電話。大変喜びながら母は言ったのです。
「お花もらうのなんて何年ぶりかしら~」
……ちょっと待て。私が学生時代にお花を贈り続けたら「花は飽きた」って言ったのはどこのどなたでしたっけ? だからそれ以降はお花以外のものをプレゼントしてたでしょうが! と指摘すると「……そんなことを言った覚えがある」。ボケるにはまだ早いぞ母。

とにかく、喜んでもらえたようで何よりです。次は父の日サプライズ。でも母の日に実績を作ってしまったので、サプライズにならない現実。まあいいや。父は何が欲しいんだろう。
両親の。
というわけで、ワインを買って実家に赴いたわけです。
「今日って結婚記念日だよね」
「……あ、そうかもしれない」
母……そりゃ確かに毎年イベント的なものはないけれど、覚えておきましょうや、結婚記念日。

父帰宅。
「娘が私たちの結婚記念日にってワインをくれたのよ~」
「あ、そうだったっけか」
父もか! なんてプレゼントのし甲斐のない2人だ!!

この2人はお互いの誕生日も覚えていないんじゃなかろうかとどきどきすることがあります。
先日、ふとしたことから「こまち家の墓」の話になりまして。
うちのお墓には6体までしか入らないんだそうです(無尽蔵に入れるのかと思ってましたが、よくよく考えれば不可能ですね)。

現在のメンバーは
祖父(当選)←死去
祖母(当選)←死去
父(当確)←長男ではないが、墓守
母(当確)←熟年離婚しなければ
私(当確)←もう嫁には行けまい
となっております。
で、
「こまちちゃん1人で入るの? 寂しいよ?」
と母に言われ、そーかあ、婿探さなきゃいけないのかあ、来る当てねーよ、けっ、と思っていたのですが。

今日思い出しちゃった。

確かうちのお墓には父の兄(私が産まれる前に若くして死去)が入っていたはず。

ということは、だ。
祖父(当選)
祖母(当選)
伯父(当選)
父(当確)
母(当確)
私(当確)
議席空いてませんけど。

うーむ、この面子では確かに寂しいかもしれない(連れがいないという点で)。
嫁に行くしかないのか、そうなのか。
しかし慣れ親しんだ選挙区(違)を離れるのも心苦しい。

だがそもそも独り身で一生を終えたら誰が私を葬ってくれるのか。
……まさかの無縁仏。おおお恐ろしい。

将来の目標:孤独死回避
私の新しい髪形を見て

「ジョン・レノンみたーい」

更に「オノ・ヨーコにも似てるよね」

褒められていないことだけはわかりました。
仕方ないだろー、美容師さんお墨付きのパーマのかかりにくい髪質なんだよう。
しかも昨日髪洗ったらほとんど取れちゃったんだよう。

次にかけるときは「もっと強く」とお願いせねば。
祖父の告別式その他諸々が滞りなく終了しました。
もう私はボロ泣きで何が何やらよく覚えていません。多分娘である母より泣いてました。というか孫8人の中で泣いてるの私1人でした……ちょっと恥ずかしい。
色とりどりのお花に囲まれた祖父は、それはそれは安らかな顔をしていました。

お骨がしっかり残って、そのままでは骨壷に入りきらないほどでした。骨太だったからなあ。
帰りのバスの中で母がぽつりと「行きは2台だったのに帰りは……」やめて、泣くからやめてー。

四十九日に納骨だそうです。10年前に先立った祖母に、やっと会えるのかな。

さあ、明日から日常生活に復帰です。月末には友人の結婚式も控えています。
別れの儀式というのは、気持ちを切り替えるためにも重要なんだなあと思います。
思い出しては涙することもあるけれど、元気に働かねば。
祖父の顔はそれはそれはもう綺麗で、しみもほとんどなく、しわも97歳とは思えないほど。
そんな顔を見ながら、私はおじいちゃん孝行ができただろうかと、そう思った瞬間涙が溢れ出ました。

祖父は亡き祖母と共に孫の中でも私をいちばんかわいがってくれたそうです。
祖父母の望む高校へ私が合格したとき、本当に喜んでくれました。どうやら自慢の孫だったようです。

5年前だったか、祖父が私の実家に遊びに来ていて、元気な祖父と会ったのはそれが最後だったと記憶しています。あのときもっと話しておけばよかった。一緒にお酒を飲めばよかった。後悔先に立たず。

母がぽつりと「おじいちゃんも死んじゃって寂しくなったねえ」と言いました。
今日は兄妹揃ってお線香の番をするそうです。
見送る人が1人足りません。1年前に亡くなった伯父が元気なら、兄弟姉妹水入らずで祖父のことを語り合ったことでしょう。

おじいちゃん、どうせなら、100まで生きてほしかったよ。
祖父が亡くなりました。97歳の大往生です。
肺にガンが転移していて、普通ならものすごく痛がるはずなのに、全く痛がらず。
最近はご飯も少し食べられるようになって「これならしばらくしたら退院できるかもね」なんて話していた矢先の出来事でした。
24時間看護が必要ではなかったので、誰もいなくなった間にひっそり、眠るように逝ったそうです。

告別式は木曜なのですが、天気予報は晴れ間が見えるとのこと。
おじいちゃん、すごいや。
もう何年も風邪などひいたことのない父が、熱を出したそうです。既に38℃を超えてるとか。明日朝一で病院に行くそうです。
症状は熱だけらしく、食欲もあるので、治るのは早いのではないかと踏んでいます。
お酒が大好きで、休肝日など人間ドッグの前日ぐらいしかない父。年も年なので、少しは身体にやさしい生活を送ってほしいものです。
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。